誰が春を殺した

墺洪前提の+プーの現代パラレル話です。暗いです。苦手な方はご注意ください
オッケーなかたのみどうぞ






























 

誰が春を殺した

 季節は心地のよい日々を追いやって、ひたすらに皮膚を焦がそうとしてくる。歩くたびに身体中にまとわりつく生ぬるさにいい加減うんざりしていた時だった。
「ねえ」
 快活なメゾソプラノに呼び止められた。その持ち主が誰なのか、振り返らなくても分かる。嫌というほど聞き慣れた声だ。肌を掠める蒸し暑さと同じくらい自然にプロイセンの耳を撫でたそれは、苛立ちをどこかに含んでいる。
「ねえ、待って」
 無視して歩みを進めれば、罵声が間髪入れずに飛んでくる。
「バカプー!待てって言ってるでしょ」
「……なんだよ」
 わめかれるのも面倒くさいので、観念してつかまってやる。振り向いた先で、怒りの中にどこか笑みを混ぜたような、不思議な表情をした少女が手招きしていた。
「ちょっと、いいよね。来て」
 言うなり踵を返して歩き出した少女は、こちらを見返りもしない。プロイセンがついてくるものだと思っている。拒否権を奪われ、プロイセンは仕方なしにかなり前を行く彼女を追い掛けた。


 ノンストップ、会話なしで連れて来られたのは、キャンパス内にあるオープンテラスだ。次の講義がもうすぐ始まるからか、テーブルを囲んで談笑する学生たちの姿はまばらにしか見られない。プロイセンとて次は休講ではないのだけれど、少女の呼び出しを無視してきつい制裁を食らうよりは、出席点が減るほうがましだと直感的に思った。さっさと終わらせて、教室に行こう。そうすればどちらのお咎めも受けないだろうから。
 すぐそばの自販機で適当な飲み物を買って、プロイセンは少女とは別のテーブルに腰を下ろす。同じ席につくものと思っていたらしい彼女が明らかにむっとしたことには、気付かないふりをした。買ったばかりの缶ジュースを一気に喉に流し込むと、冷えた炭酸が涙を誘発する。
「なんか用かよ」
 噎せそうになるのを堪えて、プロイセンは少女に尋ねた。
「……………」
 返事はない。彼女は陽光と梢が作る影に眼差しを落とすばかりで、プロイセンのほうを見ていなかった。つい先日まで淡いグレーだったその影は、いつの間にか目を焼く色濃い真黒になり代わっている。コントラストのはっきりしたそれが、地を舐め上げるような風に合わせて揺らめいた。そんなものを見ても、ただ季節のうつろいを実感させられるだけで、面白味も何もない。
「ハンガリー」
 プロイセンが焦れて名を呼べば、
「……特別、理由があるってわけじゃ、ないんだけど」
 言い訳のような返答が落ちた。少女――ハンガリーは片手で未開封のアルミ缶を抱え込んだまま、もう片方でやわらかな髪をそっと撫で付ける。その薬指には、つい先日までは見た覚えもない、銀いろが光っていた。特別豪奢な訳でも、目を引くような輝きを放っている訳でもない。それでもそれは、きらきらと、プロイセンにはとてもまぶしいもののように見えた。決して主張はしないけれども、高貴さの漂うシンプルなプラチナのリングだ。ハンガリーとここにはいない男とを結ぶ、小さな、証。それを贈った相手と、彼女は真夏の中頃に式を挙げる。
「…どうしたの?」
「なんもねえよ」
 その手元をつい凝視してしまっていたからだろうか、オリーブいろの双眸が怪訝そうに問う。今度はプロイセンのほうが視線を横に薙いで、石畳の影を見つめることとなった。
「おまえ、次の講義は」
「ない。今日3限から後は、なにも取ってないから」
「(……俺はあるんだけど)はぁ…」
 用があるなら早く言えよ。言外にそう含ませてはみたが、プロイセンの本心はハンガリーには伝わらなかったらしい。ため息をついても、彼女はこちらに一瞥をくれただけで何を切り出そうともしなかった。携帯電話を開いたり閉じたり、メールか電話かを待っているのだろうが、画面を覗き込むハンガリーの表情には笑みが見て取れた。
「ずいぶんと楽しそうだな」
 無意識にこぼれたプロイセンの呟きを、ハンガリーが拾う。
「……楽しそう?私が?」
 別に聞かれて問題になるようなことではないのだが、何とはなしに気まずさが付きまとう。なんでそう見えるの、と問いたい気持ちを抑えているのか、ハンガリーは寄せた眉を元に戻そうとしなかった。
「なに?どういう意味?」
「――いや、準備とか、あんだろ。色々と」
「……そうね、うん、楽しいかも。こういうの、好き」
 いつもは日溜まりみたいに笑うくせに、「好き」と言った唇はわずかに緩められただけ。プロイセンは残りのジュースを煽りながら、ハンガリーの何ともいえない表情を見なかったことにした。
「来週には招待状、渡すからね」
 郵送なんてしなくていいでしょ。ゼミで会うんだから。
「…ああ」
 招待してくれる気はあるんだな、とプロイセンは彼女の言葉を意外に思った。そんなこちらの心情を汲んでか、ハンガリーは笑みを少しだけいつものそれに戻す。
「じゃあ、後でオーストリアさんに伝えとくから。これからウェルカムボードを見に行こうって言ってるんだ。今、連絡待ち」
「だったら俺に構う暇なんてあんのかよ」
「だって頼まれたんだもの」
「何を」
「見てこいって。あんたの様子をね」
 途切れた会話の隙間に、遠く。空の高いところで始業のチャイムが響いた。
「オーストリアさんったら、あんたが『落ち込んでるだろうから励ましてやって下さい』だって言うんだよ。もう、やんなっちゃう」
「……………」
「私には、あんたをイラつかせることしかできないのにね」
 自覚があるならさっさとウェルカムボードなり式場なりを見に行ってくれ。思っても口には出さず、プロイセンはただ、眉を下げるハンガリーと目を合わせないようにする。気遣わしげな言葉を掛けられる道理はないというのに、彼女はこちらの機嫌を窺うような声を出した。
「怒ってる?」
「理由がねえだろ」
「あるよ」
 言い切られてしまって、プロイセンは顔を上げた。強い語を放った真意を知ろうとしてハンガリーを見ると、彼女はこちらを避けるようにひとみを伏せる。何かを言いたげな唇がわななき、けれども言葉にはならずつぐむのを繰り返している。
 ふたりに流れるしじまの間を温い風が舞い上がり、青々と枝を飾る葉をざわめかせた。やがて、梢のささやきよりもずっと微かな問いが、ハンガリーから落ちる。
「………好き…、だったん、でしょ?」
 怯えるように苦しげに告げられた、その一言で。プロイセンの頭にカッと血が上った。自然、語気も荒くなる。
「てめえ、自惚れんのも――」
「違うってば。私じゃ、なくて。オーストリアさんを」
 握り込められたのは、ハンガリーではなくプロイセンの手のひらだった。言葉に詰まる。彼女は上目にこちらを見つめるだけで、それ以上を続けることはない。プロイセン自身も、勝手に震えだす声を落ち着かせるのが精一杯だった。
「な……に言ってんだよ。なんで、んな話に、」
「あんた、オーストリアさんのこといつも見てたじゃない」
「見てねえよ、あんなトンマなお坊ちゃんなんざ」
 睨み据えてみても、ハンガリーがひるむことはない。逆に、プロイセンの心に焦りを生むだけだった。梢から漏れ落ちる日差しを痛いくらいに暑く感じた。放置されたハンガリーの缶コーヒーからも、大粒の水滴が垂れる。
「嘘。分かるよ、私だってずっと彼を見てたから」
「だからなんだよ。俺には関係ねえし」
「…なにかないの」
「は? なにかって何」
「悔しいとか私が憎いとか、」
「別に…ねえよ」
「ないわけ、ないじゃない。あんたはオーストリアさんが好きなんだから」
 違う、と即座に否定することができなかった。ハンガリーのひとみがぐにゃりと歪む。泣きそうなのは彼女もまた同じだった。
 オーストリアがハンガリーとこうなることを望む以上、プロイセンに何が言えるはずもない。それに、ハンガリーがこちらに負い目を感じる必要性だってない。奴は自らの意思で彼女を選んだのだから。
 それに、無条件に笑うのは無理だとしても、今回ばかりは祝福の言葉くらいなら掛けてやらないこともないのだ。相手が誰であれ、オーストリアが幸せならそれでいいと思う。
 そもそも、プロイセンが知る限りのオーストリアは、極端に鈍くて愚かな男だ。こちらが向こうを嫌悪するスタンスを取っていたのだから、奴がプロイセンの思うことに気付く可能性は万に一もなかったはずだ。いや、おそらくは。オーストリアは他意もなくハンガリーを寄越したに違いなかった。それが彼女を傷付けることになるとは思いもしないで。
 ハンガリーは自分がオーストリアの隣に寄り添うのを許される存在になったと同時に、プロイセンには憎まれて当然の存在にもなった、と考えていたのだろう。だから、こんなにもプロイセンの言葉を恐れている。
 いくらオーストリア自身が知らぬところとはいえ、好きな女を泣かせるとは――全く、奴は愚かな男だ。プロイセンは吠えたがる心を唇を食いしめることで抑え込んだ。
「どうしてなにも言わないの。ねえ」
 ……俺は、好きだったよ。
 口の中だけで言ってやる。誰に気付かせるつもりもなかった。誰に言うこともなく、脳の底で蓋をしてしまおうと思っていたのに。
「…全部、おまえの思い過ごしだって。俺がオーストリアなんかを好きになる訳ねえだろ」
 ハンガリーはかぶりを振った。溜めた涙を溢すまいと見開かれた気丈な双眸に、酷い表情をした痩せっぽちの男が映っていた。何故ハンガリーのほうがつらそうな顔をしているのか――彼女には怒りも嫉妬も一つとして沸いてこないのに。
 流すには足りなさすぎる涙を抱えたプロイセンは、それでもまだオーストリアを想って脈打つ己の心臓を憎いと思った。


(いくら待てども訪れぬ)